'20年秋アニメの論点

目次

 

魔王城でおやすみ 〈怠惰〉と〈暴力〉と〈サイコパシー〉の新しい結節

4話まで視聴。

誰から始まったのか調べていないが、双葉杏、土間うまる、ダダダダ天使、大崎甜花といった〈だらける女の子〉の類型があり、本作のスヤリスはまずその系譜に位置付けられる。これは鑑賞者であるオタク男性の、社会や人生からの逃避的傾向を、欲望としてもっとも直截に理想化したものであり、その証拠に、引きこもってすることが詩作やクラシック音楽鑑賞ではこの類型として成立たず、ゲーム、漫画、惰眠といった、鑑賞者の日常的な欲望の対象を彼女たちは趣味としていなければならない。現実の男性にあっては行末に暗雲を落とすこの傾向が、画面内の美少女に帰属するや可愛らしい属性になり、物語が何年も先を描かないので、人生の行末への目はふさがれる。この魔法によって、鑑賞者は自身の劣等感をそのまま愛らしさに逆転し、その過程で〈女の子になりたい〉という願望をも叶えている。彼女たちはこれまでのところ、世話をしてくれる人物と共に現れるので、鑑賞者はまずこの人物に同一化し、その人物の愛の作用によって彼女たちを——つまり、自身の劣等感を——享楽するという、二重の手順を履むこともある。この人物とは土間うまるに対しては土間タイヘイであり、スヤリスに対しては魔王城の魔物ということになる。

この系譜は、こうして劣等感の安楽化として創められたのであるが、その本質が欲望の肯定である以上、系譜が下り、傾向が尖鋭化するにつれて、暴力的になるのは必然であった。怠惰が暴力と不可分になる様相はすでに『うまるちゃん』によって示されていたが、本作はより露骨に、というより、暴力性を享楽する欲望のために積極的に、表現されている。スヤリスは、惰眠のために魔物を瞞着し、あるいは殺害するが、暴力性を際立たせるため、魔物はあえて善人に描かれる。例えば『プリコネ』のぺコリーヌが食欲のために魔物を討伐するのは、魔物が悪として描かれているおかげで暴力的に見えないのに、本作はあえて善人を屠殺させるのだ。

したがって、この系譜は〈暴力を享楽とする女の子〉の系譜と交叉する。いわゆる暴力ヒロインが属してきた系譜であり、注目すべきは、その暴力シーンが常にコミカルに描かれてきたことだ。しかしこの系譜としては、好意の相手に暴力を振るう暴力ヒロインたちではなく、抽象的な暴力、、、、、、を享楽する、近作『防振り』の主人公を参照すべきだろう。『防振り』のメイプルは、VRMMOのプレイヤーであり、風変わりなプレイングと運によって凶悪なスキルを身につけ、モブプレイヤーたちを蹂躙することになる。この作品における暴力の処理にはすでに鮮やかな考察がある。

さて、良心的な理想的美少女が完璧な暴力から享楽を得るにあたり考えるべきは、暴力から生じる悲劇と罪悪感をどう処理するのかという問題だ。
言葉の定義上、「殴る」という行為には「殴られる」相手が必要である。一般的に言って暴力とは常に他者との関係の中にあり、その行使は他者と無縁でいられない。暴力を振るえば誰かは傷付くし、自分にも傷付けた罪悪感が生じてくる。いみじくも「大いなる力には大いなる責任が伴う」と言うように、個人が力を持つことは常に周囲との軋轢を生む。
魔王化して暴力を振るうことは美少女に望まれる享楽であったとしても、暴力を振るった結果は享楽からは遠くなる。

つまり、「魔王化」してモブプレイヤーたちを蹂躙するメイプルが、どのようにして暴力の良心に背く側面を回避できるか、という問題がある。視聴者は、美少女が抽象的な暴力を享楽するのは喜んで観るけれども、その犠牲を考えると倫理的に苦しんでしまうからだ。ド・サドをテレビで流す訳にはいかないのだ。この問題に対して、『防振り』では二方向からの解決が与えられているとLW氏は指摘する。第一に、モブにとって死は所詮ゲームでの死なので、痛くも痒くもないという方向。第二に、メイプルにとってもゲームに特段目標があるわけではないので、暴力に深刻な理由はないという方向である。本文を引こう。

蹂躙されるモブについては「所詮は娯楽である」というVRMMO設定を密輸入して悲劇をシャットアウトすると共に、主人公についても文脈を欠落させた記号的な暴力を前面に出して罪悪感を払拭した。
これにより、暴力の行使に伴う障害を完全に取り除き、美少女主人公が振るう究極の享楽としての暴力が完成した。

もう一つ私が補足したいのは、風変わりなプレイングと運によって主人公が凶悪化してしまう、というシュールさのおかげで、暴力がコミカルに描かれる点だ。殺伐としたアニメにしようとしない限り、暴力をシリアスに演出しないことは伝統的に必要とされてきた。

この議論を踏まえて『魔王城でおやすみ』に戻ろう。まず、モブの死を死としないような仕組みとしては、魔物が蘇生できるというシステムがある。暴力のコミカルな演出としては、たかが眠りのために殺されることや、魔物が小物に描かれていることがある。この二点については、確かに暴力は棘を落とされているといえる。ところが第二の点についてはどうか。スヤリスは一貫して快適な眠りのために魔物たちを殺害してい、このことによって実際に彼女の暴力性が強調されてすらいる。なぜこのようなルールの踏越えが可能になったのだろうか?

それは、〈怠惰な女の子〉の系譜が、より大きな、〈サイコパスな女の子〉の系譜に属していたからだ。サイコパスという術語が正確さを欠くなら、「欲望のために手段を選ばない」と言いかえてもよい。劣等感の安楽化として誕生した時点では、サイコパシーの傾向は薄かったが、その時点でもすでに、怠惰を守るためにあらゆる策を弄するのはこの類型の定型であった。怠惰が欲望として正体を現せば、必然的にこの定型はサイコパシーへ発展するであろう。

〈怠惰な女の子〉が今秋尖鋭化する以前から、〈サイコパスな女の子〉たちは目的的な暴力を平然と行使してきた。その典型はヤンデレである、と言えば、読者諸氏はすぐに諒解されるだろう。メイプルは本来的に無目的な、無意味な、〈ゲーム〉を楽しむ主人公だったために第二のルールを超えられなかったが、スヤリスは〈サイコパスな女の子〉の系譜にはっきりと名を刻み、このルールを無視することを選んだのである。

サイコパスな女の子〉の魅力は、昼の社会の規範を知らないことにある。夜の透徹を見せてくれるキャラクターとして、性の側を歩くヤンデレの異母妹に、眠りを固執するスヤリスが誕生したことは、まことに適当な成行であろう。

魔女の旅々 データベース構造を一作で表現する

4話まで視聴。

ライトノベルで、このように物語どうしの聯関のない、純粋な連作が可能になっているということに驚いた。この〈小さな物語〉たちの連なりは、何の哲学的あるいは民族的世界観(〈大きな物語〉)もなく、ただそれらしいデータベース上の要素を組合せて作られているという点で、純粋に『動物化するポストモダン』的な作品だといえる。面白いだけの物語に対する欲望を叶えている点で、純粋にエンターテインメント的な短編小説集だともいえ、我々はこの作品に何らの人生的あるいは世界的な真理をも求めず、単に感情のみを消費するであろう。

3話にせよ4話にせよ、悲劇*1が何の解決もなく抛り出される点も、この〈小さな物語〉性の完全さを体現している。というのも、アニメにおいてかかる表現が可能であるのは、悲劇に遭う人物が、各話の主要人物であるにもかかわらずどうでもよい〈モブ〉だからであり、各物語をこのように抛り出せるのは、各物語が作品の続きに影響を及ぼさないからである。〈モブ〉にしんからの興味がなく、ただデータのコンビネーションを見物して回る自分をのみ愛しているイレイナは、本作が要求する読者像でもある。イレイナが第1話で言われていた、「自分が特別な人間であると思うな」という訓戒は、登場人物でありながら読者の高みを取ることへの警告であるとも読めるが、どこかで回収されるのだろうか。

ただ、そういう作品構造自体は、古くから推理小説シリーズが繰り返してきた陳腐事であるし、何よりストーリー作りがあまりに下手なので、私はもう見ない。だいぶ耐えていたけれど、4話の「私はその代償として記憶を失った」でさすがに駄目になってしまった。謎をサスペンドし続けてこんな雑な説明づけは酷すぎる。1話のイレイナがボコされるシーンはよかった。最終話でイレイナがレイプされたら見る。

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 競争社会のラディカルな解体

6話まで視聴。

このアニメが注目されているのは、『ラブライブ!』、『ラブライブ!サンシャイン!!』と違ってラブライブ*2を最終目標にしない点のようだ。これを、本作が外伝作品だからと片付けているコメントが多いようだが、私は簡単ながら歴史的な視座を持ちたい。それによって、『ラブライブ!シリーズ』の脱競争社会的な方向性と、本作の今後の論点が明らかになることだろう。

最初の『ラブライブ』においては、序盤からラブライブが目標とされていたが、競争で成功するためには団結の固さが重要になる訳で、物語において乗越えられるべき課題は、しばしば心をひらけないことであった。1期前半にキャラクターたちが部の加入をためらった理由、1期終盤の留学を打ち明けられないことり、2期1話の自信喪失を言えない穂乃果‥‥‥特定のキャラクターがフォーカスされる回はすべて、心を開けないことが問題になっている。一話ごとに、キャラクターの心が開かれるか、競争上の課題をクリアするかして、〈友情のあまねき貫徹〉と〈競争における優勝〉とが物語構成の表裏をなした。だからこそ、一方では一部メンバーが脱退して〈9人〉でなくなることが即ちグループの終了を意味することになり、他方ではテレビアニメでラブライブ優勝を果たした以上、劇場版ではスクールアイドルとして唯一アメリカ公演をするくらいしかなくなったのである。又、μ'sのコンサートにおいてどれほど〈9人〉が強調され、そのたびに一体性の完全さが夢見られていたか、当時を知る者は憶えているだろう。Aqoursでも〈9人〉は度々使われたが、アニメで同じ学校の生徒が「10」を叫ぶなど、ラブライブシリーズのお約束としての演出効果にすぎなくなった。

『サンシャイン』でもこの路線は継承されたが、〈9人〉よりカップリングにフォーカスしたことでグループの一体感は緩められ、舞台を田舎に移したことで競争への意欲は軽減された。前者に関しては、「個人対他のメンバー」よりも「2年生」「3年生」「姉妹」などの人間関係が終始優先的に描かれていたことと、2期2話で「一人一人違うことが大切だ」と明確に主張されたことを指摘すれば十分だろう。後者に関しては、ラブライブと学校のどちらを優先すべきか葛藤するシーンがあったことと、劇場版でラブライブと関係ないローカルな活躍が問題になったことが根拠である。

とはいえ『サンシャイン』は、商業上の事情から、結果的に『ラブライブ』の物語構造が緩んでしまったのだと思われ、意図的なことではないのだろう。実際、製作陣の気付かぬうちに物語の骨格はがたがたになってしまい、ストーリーは崩壊寸前である。ところが、その方向性をむしろ推し進めて、本作『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』が作られる。本作では、前・スクールアイドル同好会が、団結志向(というよりファッシスト)な方針によって瓦解したこと、部員それぞれが自分の表現したいことを表現すること、何よりグループではなくソロでライブをすること、そしてラブライブを目標としないことが宣言されている。これを資本主義的構造——競争に勝利したμ'sを待っていたのは何だったか? 売上のための祭りあげと協力の強要だった——から芸術家の姿勢への移行とも云える。

このように見るならば、本作で注目すべきは、ラディカルに個人主義化した結果、どういう物語構造になるかだといえる。高咲侑が各キャラクターに関っていくのだろうか? ソロで活動するのにあえて残された緩い紐帯が、どれほどの物語を編み出せるのだろうか? 関係を描いて筋を描かなくなった『サンシャイン』のように、個人を描いて筋を描かなくなるのだろうか?

この問題に対し、現時点で最も見事な回答を提出しているのは第6話であろう。この回の主人公である天王寺璃奈は、昔からの個人的な問題——ずっと無表情で、それを気にして友人を作れないこと——を乗越えるためにライブを開きたいと表明し、部員たちの援助を取付けてその準備をする。それでも表情を変えられないことに一度絶望し、部員たちが励ましには行くものの、解決策は璃奈一人で案出した。つまり、ここでは個人的な問題を解決するためにスクールアイドルをする個人と、それに協力する他の部員たちという構造が現れたのである。いわば相互保険のようなこの緩い紐帯は、いうまでもなく本作が初めて表現したものだ。璃奈と最も縁の深いキャラクターが、運命的というより偶然的な出会い方をしていて、ライブにも特段深い助力をした訳ではないことも、この紐帯の緩さを示唆している。各々の目的のために集まった、切断しようと思えばいつでも切断できるような、〈絆〉を求めない関係性——というのは、現代的でもある。

とはいえ、この方針で『ラブライブ』を超えられるかというと、私は疑問を覚える。本シリーズのお約束に、あまり「重すぎる」ものを描かないこと、健全な、肌触りのよいものだけを描くことがあるため、思春期の少女の葛藤などを十分表現できるとは思えないからだ。〈9人〉をほぐしても『ラブライブ!シリーズ』らしくするために、本作は数々のお約束を踏襲しているが、それが足枷になってしまうように思えるのである。

余談。当初は『サンシャイン』の後、本作の前に、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を入れて、ブシロードの脱資本主義的な方向性を論じようとしたのだが、不自然だと思ってやめた。『レヴュースタァライト』には、少女たちが「キラめき」の強さで戦い、優勝者が敗北者たちの「キラめき」を総取りする「オーディション」があって、それが資本主義的競争社会の暗喩になっている。そして最後には、競争の勝利を捨てて愛を取るという、鮮明なテーゼが打出される。この作品を入れるなら、『虹ヶ咲』は資本主義競争を放棄した以後の世界、、、、、として読めるのだ。『レヴュースタァライト』は非常に秀抜なので、また機会を改めて書く。

 

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*1:私はこれらを悲劇だとは全く考えないが、「救いのない物語」という程度の俗な用法で。

*2:作品名ではなく、作品世界でスクールアイドルの殿堂である大会のこと。